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志和堀について
志和堀の歴史と現在
南北朝時代の建武4年(1337)志和堀は「独立した荘園」であった事が伺えます。その後伊豆の国(静岡県)田方郡天野庄より、天野政貞が地頭として入り「志和堀天野氏」の時代が始まりました。政貞は「金明山城」を築き、7代目の元貞は「財崎城」(志和堀小J学校の位置)を築きました。次の8代目の天野隆重の時代が、志和堀天野氏の一番栄えた時代で、毛利元就の重鎮として各地で活躍しました。10代目の天野元重は関ヶ原の戦い(1600)で、毛利方(毛利輝元)に付き、徳川方に負けて以後記録から名前が出なくなりました。
江戸時代に入り慶長6年(1602)に検地が実施され、志和堀村の総反数=181町、石高=1184石と記録が残っています。 また、明治までの間の村役人は、庄屋=16人、組頭=17人、となっています。
明治22年(1989)町村制施行が有り、志和は「西志和村」「志和堀村」「東志和村」の3カ村でスタートしました。
昭和に入り昭和30年(1955)に志和3カ村が合併し「志和町」が誕生しました。
その19年後の昭和49年(1974)には、西条町、高屋町、八本松町と志和町が合併し東広島市が始まり、以来49年を経て現在(2023)に至っています。
志和堀の農業
志和堀の農地と畑作は合わせて約130haに及び、そのおよそ8割が平坦で圃場整備がされているが、中山間地域には棚田も点在している。また稲作の作付けは約80ha(H27年)である。
農業従事者は高齢化が進み、耕作放棄地が増加傾向にあるのが現状である。
これ以上耕作放棄地が増えない様に、地区内にある2つの農業組合法人が連携して取り組みをしている。
併せて、直近10年間に亘り若者の農業従事者を迎え入れる活動にも取り組んでいる。
彼ら若者の皆さんは、その耕作放棄地の再生に積極的で、有機農業を実践し成果を上げている。彼らと共に手を携えて志和堀の農業と環境保全に力を注いでゆく。将来の志和堀の農業の見通しは厳しいが、農業後継者や担い手の確保に努力する必要が有る。